HOME > ライフスタイル&グルメ紹介 > 人々|Vol.32 富士山と御師
私自身は東京の生まれですが、子供の頃、夏休みは必ず上吉田で過ごしました。祖父に連れられて富士山に登ったことも憶えています。父の姉である伯母が嫁いだ外川家は親戚です。跡継ぎの文俊君とはよく遊びましたが、若くして亡くなり外川家は断絶しました。彼の実姉である原夫婦が旧外川家住宅を守ってこられました。ご夫婦の努力で国の重要文化財に指定され、今は世界文化遺産に登録されました。竹谷家は武田家の家臣・小山田弾正の家来で、「靱負」という名前は武士の名ですね。御師旧竹谷家住宅は、原夫妻が居住し伝統を守ってくれています。
富士山への登拝は、もともと修験者が中心で、登拝口の起点になる町には修験者のための宿坊「道者坊」がありました。その宿坊を経営するのが浅間神社所属の御師で、身分は神職です。御師は祈祷もしました。「おし」とは「御祈祷師」の二字をとったと言われていますね。上吉田の御師町は、元亀3年(1572)に新しくつくられ、戦国時代にすでに栄えていました。御師は神職として諸国を自由に出入りでき、武田の家臣・小山田家には諜報活動をやっていた「透破侍」という御師団がいたという面白い記録もあります。
江戸時代に富士講が盛んになり、夏になると各地からたくさんの人々がやってきました。御師は信仰集団の宿泊や賄いの世話をし、正しい登拝の流儀を伝え、登拝の無事のために祈祷も行いました。登拝ができないオフ・シーズンには檀那場(檀那のいる場所)を廻って、祈祷をし、絵札や護符を配り、お布施(初穂料)を集めていました。今風に言えば、リピーターに挨拶回りする誘致営業活動ですね。
日本人が山に登ったのは山に宿る神を拝むためです。西欧では山は悪魔が棲むところで近寄りがたい場所、征服の対象でした。日本と西洋とでは、山岳に対する考えが根本的に違っていたわけですね。富士講で多くの一般庶民が登拝するようになっても、厳しい掟の下に、登拝道以外には決して立ち入らず、汚すことを極度に恐れました。
今日の観光登山では、富士山は最も人気の高い山です。世界文化遺産になって人気は海外にまで広がっています。登山を楽しむ人々が富士山信仰文化について知識を得ることは喜ばしいことです。同時に、富士山の自然環境を守る登山ルールを再構築しなくてはなりません。昔の人の富士山に対する純粋で敬虔な気持ちを再評価する意味もあります。私たち日本人には、世界文化遺産「富士山」を未来に残していく義務があるのですから。
竹谷靱負著
『富士山文化―その信仰遺跡を歩く』(2013)
『日本人は、なぜ富士山が好きか』(2012)
いずれも祥伝社新書
写真(タイトルバック)提供:神道扶桑教管長・穴野史生氏
富士講徒らの登拝具としての展示、すげ笠・金剛杖・草鞋(御師 旧外川家住宅)。
浅間神社の絵馬も今や世界中の人の願かけが見られる。欧米語に中文・ハングル・タイ語など国際色豊か。
富士山文化研究会会長・富士学会理事
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