Vol.34 富士急行 創立90周年「山中湖畔別荘地」誕生物語|人々|ライフスタイル&グルメ紹介|富士山・山中湖の別荘ならフジヤマスタイル

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Vol.34 富士急行 創立90周年「山中湖畔別荘地」誕生物語|人々|ライフスタイル&グルメ紹介|富士山・山中湖の別荘ならフジヤマスタイル

夢と情熱から生まれた大構想「富士を世界に拓く」

「富士山の北麓にある山梨県の県有地を、数百万坪借り受けます。ここは景勝に富む、山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖など五つの湖があり、その湖畔には別荘を数千戸造って開発します。ここに、八間幅もある道路を整備して遊覧客にも便宜を供与したいと思います…」。

大正6年(1917)9月25日、東京・帝国ホテルで開かれた「岳麓開発事業創立準備委員会」で、当時の甲州財閥を代表する小野金六、根津嘉一郎をはじめ、参集した在京の実業家十数名を前に、創立筆頭委員であった堀内良平(現在の富士急行株式会社の創業者)が情熱を込めてその趣旨を訴えました。

未開の富士山北麓の景勝地を開発して、「富士山を世界に売る」という堀内良平の壮大な夢の構想をバックアップしたのは山脇春樹山梨県知事でした。官民一体の計画推進活動のために率先して準備会招集責任者となり、その日、準備委員会の開催が実現したのでした。当時としては、誰も思い描くことのできなかったその構想には、大月から富士吉田への鉄道敷設、すでに運行していた富士身延鉄道の「電気鉄道化」計画も含まれていました。

翌大正7年4月、甲府市の望仙閣に、県会議員および甲府市会議員数十名が招かれ、「富士山麓開発準備委員会」が開催されます。

そこで提唱された理念とは、
――日本は気候温暖で風光明媚ながら、箱根や日光、京都ですら設備が不完全で外国人観光客を満足させていない。富士山と富士五湖を中心に、風光世界一の富士北麓を開発して、大いに世界に売り込めば、甲州はもちろんのこと日本の発展にも寄与する――
というものでした。

大正13年(1924)6月、山脇知事の後に就任した本間利雄山梨県知事は、岳麓開発に熱心に取り組みます。大正12年に発生した関東大震災後の厳しい経済状況の中で、本間知事は、県是として富士山麓開発構想を実現する方針を固めます。「岳麓開発は、小さな考えを捨ててかからねばならない」と。大正14年、本間知事は県内有力者約百名を県会議事堂に招集し協力を求め、様々な議論の末、最終的には全会一致で知事の説明に賛成が得られます。本間知事は、全会一致の結果を得て、早速、東京にいた堀内良平に伝えています。

大正15年(1926)9月、後任の黒瀬弘志山梨県知事の肝いりで「富士山麓電気鉄道株式会社」の創立総会が東京市麹町区有楽町の帝国鉄道協会で開催されました。堀内良平は代表取締役に選任され、その日、現在の富士急行株式会社が産声を上げました。同時に山中湖畔別荘地開発事業を担う「富士山麓土地株式会社」が姉妹会社として誕生し、いよいよ本格的な富士山麓開発が開始される記念すべき日となりました。

このように、山中湖畔を中心とする今日でいうリゾート開発は、先人の夢と苦難を共に抱えながら、単に営利を目的とするものではなく、県と郷土を発展させ、さらに国の経済に貢献しようという、高邁な理想の下にスタートしました。現在の富士急行が山中湖エリアを事業の原点に、そして祖業の地として重視している所以はここにあります。

その年の12月、大正天皇崩御、やがて昭和という新しい時代が始まります。

山中湖を中心とするリゾート開発

山中湖を中心とするリゾート開発の淵源は、遠く明治末期にさかのぼります。

明治40年(1907)と43年に山梨県内に大きな水害が発生しました。被害状況をお聞きになった明治天皇は、山梨県の産業と県民生活の復興のために皇室財産であった16万44ヘクタールに及ぶ広大な土地を県に御下賜されます。以後、官民一体となって推進される富士山周遊交通構想の一環として、その恩賜県有財産(恩賜林)を有効活用し、別荘地として開発する構想が生まれたのでした。

そして、富士山麓土地創立後の昭和2年(1927)1月28日、第一次分として、恩賜林である山中湖畔溶岩原生林の557ヘクタール(167万坪)の土地貸与が正式に認可されます。翌昭和3年から、原生林に覆われた溶岩地帯の道路網整備と別荘地造成が始まりますが、工事は想像を絶する困難なものでした。大型建設機械もない時代、道具と言えばモッコとツルハシによる膨大な人力に頼るものでしたが、昭和4年6月に貸別荘3棟が竣工、昭和5年には旭日丘地区に全23棟が完成します。

また、昭和3年(1928)8月1日には、テニスコートや山中湖のスケート場を併設する「山中湖ホテル」が開業します(現在「PICA山中湖ヴィレッジ」所在地)。旅館ではなくホテルを建設した理由は、一つには山中湖の俗化防止であり、堀内良平のかねてからの宿願である外国人観光客を積極的に誘致するためでした。外国人のために、鳥羽・京都・箱根・日光に富士山麓を加えた日本観光ルートを開いて、大いに外貨を稼ごうという遠大な計画の第一歩でした。昭和6年5月には梨ヶ原国際競馬場、富士山五合目スキー場など、国際的観光地を目指す富士山麓土地の開発事業は着々と進みます。

昭和7年(1932)には、富士山麓土地は富士山麓電鉄に吸収合併され、その一部門として事業は継続されます。この頃の山中湖畔には貸別荘が百棟以上でき、加えて東京帝国大学、慶応・明治大学をはじめ専門学校等の夏期施設が続々と建設され、山中湖畔の夏にもようやくにぎわいが生まれてきました。

さらに富士山麓電鉄では、湖畔の別荘群やホテルに加え、ゴルフ場建設の計画が持ち上がります。今日と違って、ゴルフ愛好者は一部の特定の人であり、その計画を懸念する意見も多くありましたが、「別荘地にはゴルフ場が必要である」という堀内良平の決断で「富士ゴルフ倶楽部(現・富士ゴルフコース)」を設立することになりました。そして、昭和10年(1935)8月1日、「東京から3時間半」を謳い文句に、富士山麓電鉄の観光事業第1号としてオープンします。その後、日中戦争から太平洋戦争への戦時期の一時閉鎖、終戦後のアメリカ駐留軍による接収、27年の返還を経て、現在は秀麗な富士を眺望する歴史ある名門コースとして多くのゴルファーに愛されていることは周知のとおりです。

ところで、山中湖畔別荘地の「旭日丘」という呼称は、著名な新聞人であった徳富蘇峰の命名によるものです。かねてから親交のあった堀内良平が蘇峰の執筆活動のために別荘を提供し、蘇峰夫妻は昭和7年に入居、居宅を「双宜荘」と名付けます。良平に乞われるままに、富士山に映射する旭日の美しい光景から、丘陵地一帯を「旭日丘」と命名しました。昭和8年のことです。その後蘇峰は、東京日日・大阪毎日新聞紙上に「富士便り」という記事を掲載、山中湖と富士山の自然、そして湖畔の別荘地の魅力を全国に知らしめました。

昭和37年(1962)のあざみ丘1丁目

昭和37年(1962)のあざみ丘1丁目

現在のあざみ丘1丁目

現在のあざみ丘1丁目

同じ場所を撮影した写真。2 つの写真には50 年近い時間が経過しているが、大きな変化がほとんど見られない。森林はより鬱蒼としてきている。自然を大切にする山中湖畔別荘地の開発方針が伺える定点観測と言える。

いまに生きる、九十年の歴史、自然と共生する理念

昭和初期から始まったこの地の開発は、ゆっくりとしたペースで進んでいます。それは、恩賜県有財産という意味もありますが、日本の自然美の象徴とも言える、かけがえのない富士山を取り巻く自然環境を守り、開発当初から人と自然の共生を理念としているからです。リゾート開発に関する法体系が変化する現代にあっても、自然公園法や山梨県恩賜県有財産管理条例を厳密に遵守し、不要な乱開発を抑制しているのです。山中湖畔別荘地には、未来を先取りしたリゾートのあり方が、今も脈々と引き継がれています。

現在の山中湖畔別荘地は、全8エリア約3300区画が分譲されていますが、広大な敷地に比較すればむしろ少ない印象すら受けます。山中湖畔別荘地は、富士山麓という唯一無二の自然への憧憬を満たしてくれる地であり、自然の中でどのように過ごすかという、住む人の利用価値を最も大切にした環境があります。

都市生活の喧噪と慌ただしさを遠ざけ、大自然に包まれた山中湖畔の別荘地環境は、ゆったりとしたライフスタイルを実践する人々によって守られ続け、新しい価値が高められていくことでしょう。その山中湖開発の歴史を未来に継承していくためにも、初期の理念を真摯に守り続けていきたいものです。

【大正7年】梨ヶ原を行く馬車鉄道

【大正7年】梨ヶ原を行く馬車鉄道

庶民の足として、郡内に馬車鉄道が生まれたのは明治33年(1900)9月21日、瑞穂村(富士吉田市)―中野村(山中湖村)間の9マイル(約14.5キロメートル)であった。

【大正14年】富士山麓電気鉄道株式会社、富士山麓土地株式会社の株式募集パンフレット

【大正14年】富士山麓電気鉄道株式会社、富士山麓土地株式会社の株式募集パンフレット

大正14年6月、株式募集を開始。1株50円の10万株が目標。発起人引き受け株が1万6,000株あったので残り8万7,000 株を公募。7月末までに13万株の申し込みが殺到し、創立事務所はうれしい悲鳴を上げる。発起人割り当てを若干減らし満株に整理した。

【昭和2年】別荘土地分譲貸地案内

【昭和2年】別荘土地分譲貸地案内

株主への土地分譲および貸与は6月17・18日の両日、東京市麹町区内幸町・虎ノ門ビル内の本社で抽選が行われた。山中湖畔・梨ヶ原の会社所有地が分譲、山中湖畔の県有借地分が貸し付けであった。

【昭和5~8年】日本経済倶楽部の個人別荘

【昭和5~8年】日本経済倶楽部の個人別荘

別荘らしいのどかな雰囲気、決して豪奢に造られていないのが、山中湖畔の自然によく溶け込んでいるように感じさせる。

富士ゴルフ倶楽部パンフレット

富士ゴルフ倶楽部パンフレット

背景には雄大な富士山。ゴルファーの颯爽としたニッカポッカのファッションと遊び心のイラストが目を惹く。

建設当時の山中湖ホテル

建設当時の山中湖ホテル

富士山麓土地株式会社が工事に着手したのは昭和2 年。ホテルは外国人観光客を誘致することを強く意識していた。所在地の現在は「PICA 山中湖ヴィレッジ」になっている。

富士ゴルフコース、当時のクラブハウス

富士ゴルフコース、当時のクラブハウス

クラブハウスの設計は東京帝国大学工学部教授で工学博士の岸田日出刀氏。純日本風の合掌造りで昭和50年まで存在していた。現在はモダンで機能的な新クラブハウスに建て替えられている。

【昭和8年】山中湖スケート大会チラシ

【昭和8年】山中湖スケート大会チラシ

富士山麓の冬の楽しみと言えばスケート。富士山麓電気鉄道では、富士山を背景に描いた多色刷りの豪華なポスターを発行し、山中湖でスケートをと、都会の人々を誘った。スケート大会のチラシには2月12日開催、山中湖全面結氷35センチとある。

富士ゴルフコース、クラブハウス脇を利用したスキー場

富士ゴルフコース、クラブハウス脇を利用したスキー場

スキー人口もまだ少なかった時代。真っ白に冬化粧した富士を眺望しながらのスキー体験は、豪華でぜいたくな冬のレジャーであったに違いない。

旭日丘命名碑

旭日丘命名碑

徳富蘇峰直筆による命名の由来を記した記念碑。昭和8年(1933)、湖畔近くに建てられた。旭日が富士山に映射する美しい光景から「旭日丘」と名付けた。現在は別荘地セールスオフィスに隣接する旭日丘公園内に建てられ、誰でも間近に見ることができる。

堀内良平翁頌徳碑

堀内良平翁頌徳碑

昭和18年(1943)8月、緊迫する太平洋戦争の最中、堀内良平の功績を称えた頌徳碑が旭日丘に建立される。建設委員長は地元中野村の長田正治村長。碑面には富士を拓いた功績を称えた蘇峰による文、下方には小坂春吉書による良平の事業歴が刻まれている。頌徳碑は高さ412センチの御影石、旭日丘公園の樹林に囲まれて建つ。

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